一日一曲(1080)クレネク、エルンスト:ヴァイオリン協奏曲第1番
本日は、昨日ご紹介したさんのパートナー、エルンスト・クレネクさんの曲をご紹介します。お名前ですが、作曲者自身は、チェコ風のKřenekという表記を斥け、Krenekという綴りとドイツ語風の「クレ(ー)ネク」という発音をよしとし、自分自身もそう発音していた、とのことです。ただし、日本では、「クシェ(ー)ネク」「クジェーネク」「クルシェネク」とするチェコ語風の表記が普及しています。NMLでは「クシェネク」と表記されていますが、本サイトではご本人の意思を尊重しまして、「クレネク」と表記いたします。
クレネクさんは1900年にオーストリア・ハンガリー帝国軍のチェコ人兵士の息子として当時オーストリア・ハンガリー帝国のウィーンで生まれました。
ウィーン音楽アカデミーで音楽を学びましたが、第一次世界大戦中にオーストリア軍に徴兵されてしまいます。ただし、幸運なことにウィーンに駐屯できたため、音楽の勉強を続けることができました。戦後はベルリン高等音楽学校の校長に抜擢された恩師を追ってワイマール共和国に移り、ドイツ各地の歌劇場で指揮者として活躍しました。1922年にグスタフ・マーラーの未亡人アルマ・マーラーの娘で美術家のアンナ・マーラーと出会い、1924年に結婚。が、1年たらずで破局してしまいました。順調に作曲や指揮などで活躍されていたのですが、ナチス政権が発足すると、クレネクさんの作品はドイツで上演禁止とされてしまいました。オーストリア共和国でもナチスの影響のため、いろいろと干渉されたてしまいます。そのような中で、クレネクさんはエンゲルベルト・ドルフース率いる祖国戦線に加入し、ドルフース政権の熱心な支持者となられたとのことです。1938年にアメリカ合衆国に逃れ、当地で音楽教師として活動を開始しました。1939年から1942年までニューヨーク州のヴァッサー大学で、1942年から1947年までミネソタ州セント・ポールのハムリン大学で教鞭を執られています。1945年には合衆国市民権を取得しアメリカに帰化、アメリカでの音楽教育や作曲活動で第一線で活躍を続けられました。1991年にカリフォルニア州パームスプリングスにて91歳で永眠されました。
本日の曲はヴァイオリン協奏曲第1番です。1924年、作曲者24歳の時の作品です。かなり若い頃の作品ですが、既に作品番号は29を数えるまでになっていました。早熟ぶりが窺われますね。1924年は、最初の妻となったアンナ・マーラーと結婚した年です。結婚した時には本曲は完成していました。当時、ドイツではハイパーインフレが起きており、クレネクさんはそのためかなり経済的に苦しかったようですが、そこに援助の手を差し伸べたのがオーストラリアのヴァイオリニスト、アルマ・ムーディーさんでした。それに対してクレネクさんは感謝の気持ちを込めて、本協奏曲をムーディーさんに捧げ、ムーディーさんは1925年1月5日にデッサウで本協奏曲を初演しました。クレネクさんは初演には出席せず、ムーディーさんの演奏を聴くことがなかったそうですが、その当時クレネクさんはムーディーさんと不倫関係にあったそうです。それが原因の一つとなり、初演の数日後にクレネクさんとアンナ・マーラーさんは離婚となったそうです。
伝統的な3楽章形式ですが、切れ目なく演奏されいます。第1楽章が全体の6割を占めるほど長大な楽章となっています。この部分、Presto – Larghetto – Presto – Larghetto – Allegroと、早ー遅ー早ー遅ー中庸となっており、第1楽章は5つの楽章で出来ている、とも解釈できます。第2楽章はAdagio moltoの遅いのみですが、第3楽章は、Allegro vivace – Adagio come sopra – Allegro – Prestoと、早ー遅ー中庸ー早と4つに分かれていますので、全体で10楽章の曲とも言えるかもしれません。第1楽章の出だしの部分は第3楽章の終わりの部分でも回想される、循環形式も取り入れられているようです。最後はふっと消えるように曲が閉じられます。この終わり方はちょっと珍しいかもしれません。
NML(ナクソス・ミュージック・ライブラリ)より(NML会員以外の方でも無料で試聴できます)
クレネク、エルンスト:ヴァイオリン協奏曲第1番