一日一曲(1439)アンダーソン、ルロイ:ピアノ協奏曲ハ長調

 本日は、没後50年(1975年5月18日没)を迎えらえたアメリカの作曲家、ルロイ・アンダーソンさんの曲をご紹介します。

 アンダーソンさんは1908年にスウェーデン移民の両親の許にマサチューセッツ州ケンブリッジにて生まれました。お父様は郵便局員でしたが音楽好きで、家庭ではマンドリンやバンジョーをたしなんでいたとのことです。音楽の手ほどきは教会オルガニストを務めていた母親から受けました。地元のハイスクールでラテン語教育を受けた後、1926年にハーバード大学に入学、楽理、対位法、和声、作曲を学びました。ニューイングランド音楽院にも通い、研鑽を積まれました。1929年に学士号(音楽)を、1930年には修士号(音楽)を取得して大学を修了し、2年間ラドクリフ大学で教鞭を執るかたわら、バンドマスターやダンスホールのダブルベース奏者、学生合唱団の指揮者や教会オルガニストなども務められました。ところが、1931年からハーバード大学でドイツ語とスカンジナビア諸語の講義を受講、言語学の博士号取得を目指されました。紆余曲折の後、1942年に最終的に音楽家になることを決意、言語学の博士論文は未完のままとなりました。1938年に音楽家としての転機が訪れます。ボストン交響楽団のマネージャーの求めによってハーバード大学の学生歌を編曲して提出したところ、指揮者アーサー・フィードラーの目に止まり、オーケストレーションの能力を激賞された上、自作を書くように求められました。そこで作曲した『ジャズ・ピチカート』が、ヒット、脚光を浴びるようになりました。第二次世界大戦中の1942年に米軍に入隊し、スカンジナビア語担当の情報将校としてペンタゴンで働きました。朝鮮戦争の際にも軍属として勤務されました。1946年に除隊後、音楽活動に復帰、ヒットナンバー『シンコペイテッド・クロック』を発表しました。これはゴールドディスク賞を受賞しました、1950年代にはスタジオ・オーケストラの指揮者として、多大な商業的成功を収められました。1975年、肺癌のためコネティカット州ウッドベリーの自宅で66歳で亡くなられました。死後となりましたが、1988年に「作曲家の殿堂」入りを果たされました。「アメリカ軽音楽の巨匠」と評されています。

 本日ん曲は「ピアノ協奏曲ハ長調」です。「アメリカ軽音楽の巨匠」として、軽快かつ明快な作風の音楽が多いアンダーソンさんの作品の中で、こちらピアノ協奏曲は堂々たる「クラシック風」の曲です。メロディや展開はとても分かりやすく、大衆受けする曲ではありますが、しっかりとして構成で協奏曲としてなんら遜色のない作品です。1953年、作曲者45歳の時の作品です。ただ、なぜか作曲者自身は、本曲を自分の作品リストの中には入れませんでした。1950年代に2度演奏された後は演奏されなかったとのことです。1989年、遺族の許可を得てトロントにて復活演奏がなされ、以降は録音も増えているとのことです。アンダーソンさんは、タイプライターや紙やすりのような日用品を楽器として使用した曲を創っていたことから、「戦後における冗談音楽のパイオニア」という側面がともすると強調されがちです。ですが、アンダーソンさんの作品は、そのような変わった楽器を用いた曲でも内容的にはとてもまじめで精緻で丹念に仕上げられ、品格が保たれています。本曲もその好例と言えるでしょう。

NML(ナクソス・ミュージック・ライブラリ)より(NML会員以外の方でも無料で試聴できます)
アンダーソン、ルロイ:ピアノ協奏曲ハ長調

アンダーソン、ルロイ:ピアノ協奏曲ハ長調(MP3ダウンロード)

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