一日一曲(1564)ヴュルツラー、アリスティード・フォン:「ヤンキー・ドゥードゥル」による変奏曲

 本日は、生誕100年(1925年9月20日生)を迎えらえたハンガリーの作曲家兼ハープ奏者、アリスティード・フォン・ヴュルツラーさんの曲をご紹介します。

 ヴュルツラーさんはハンガリーの首都ブダペストで生まれました。父親はヴァイオリニスト・作曲家・音楽評論家でして、息子に音楽の英才教育を施しました。ヴュルツラーさんの兄のベラ・ヴュルツラーも音楽家になっっています。アリスティードさんはブダペストのフランツ・リスト音楽アカデミーに進学し、研鑽を重ねました。当初はピアノとチェロを学んでいましたが、12〜13歳でハープに転向しました。ハープ奏者として活躍していましたが、ハンガリー革命が始まると、兄とともにハンガリーを去り、アメリカに渡りました。当初は英語が話せなかったので、廃棄物の空き瓶も回収など、様々な仕事について苦労を重ねました。しばらくの間、売春婦が住む家に住んでいましたが、売春婦は親切にもハープを買うためのお金を貸してくれたそうです。1958年にデトロイト交響楽団、そしてニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団の初代ハープ奏者として新たなキャリアをスタートさせました。1963年からはハートフォード大学でハープの教授を務め、毎年ハープマスタークラスを設立しました。1969年、ヴュルツラーは米国で初めて開催された国際ハープコンクールを開催しました。1970年にはニューヨーク大学、ホフストラ大学、ニューヨーク市立大学クイーンズカレッジ、コネチカット州ブリッジポート大学で教授を務められました。また、1970年には、ニューヨークハープアンサンブル(NYHE)として国際的に知られる4人のハープグループである彼自身のバンドを結成しました。アンサンブルとソリストとしても、ヴュルツラーは60カ国以上で演奏し、多数のコンパクトディスクを制作し、カーター、レーガン、ブッシュ、クリントン政権時代にホワイトハウスで演奏するよう何度か招待されました。また、1985年にはバチカンで教皇ヨハネ・パウロ2世の演奏に招待されています。
国際的な評価にもかかわらず、ヴュルツラーさんは心の中で母国ハンガリーに情熱を注ぎ続け、70年代半ばから定期的に帰国しました。毎年ハープのマスタークラスを設立し、ブダペスト、ソンバテリー、ケシュテリーのヘリコン城でいくつかのコンサートを開催しました。1997年11月30日、指揮者として出演していたハンガリーツアー中に心臓発作で亡くなられました。

オーケストラ

アリスティド・フォン・ヴィルツラー:バッハ、ベートーヴェン、ショパン、ドビュッシー、ガーシュウィン、そしてヴォルツラー風の「ヤンキー・ドゥードゥル」による変奏曲
これらの変奏曲で、ヴォルツラー博士は自身の創造的才能の全く新しい側面を見せています。バッハ、ベートーヴェン、ショパン、ドビュッシー、ガーシュウィン、そして彼自身といった作曲家たちのよく知られたテーマを取り上げ、彼らのスタイルや作曲技法を、類まれなユーモアと遊び心をもってパロディ化しています。

 本日の曲は「ヤンキー・ドゥードゥル」による変奏曲」です。ハープの合奏という、非常に珍しい演奏形態ですが、これはご自身が創設したニューヨークハープアンサンブル(NYHE)のレパートリー用に書かれたものだからでしょう。
 多くの方が本曲の主題となっているメロディはご存じではないかと思います。この有名なメロディを、ヴュルツラーさんは自分自身を含む6名の作曲家の作風に合わせた変奏をおこなっているという、非常に凝った作りになっています。曲の構成は以下の通り。

主題
Variation 1: Bach
Variation 2: Beethoven
Variation 3: Chopin
Variation 4: Debussy
Variation 5: Gershwin
Variation 6: Wurtzler

 どの変奏も、作曲家の雰囲気が非常によく出ています。最後のヴュルツラーさんの変奏のみ、私は本曲以外のヴュルツラーさんの曲は残念ながら聴いたことがありませんでしたので、「こういうものか」という感想になっています。
 本日の演奏には、作曲者自身も参加されていらっしゃるようです!

NML(ナクソス・ミュージック・ライブラリ)より(NML会員以外の方でも無料で試聴できます)
ヴュルツラー、アリスティード・フォン:「ヤンキー・ドゥードゥル」による変奏曲

ヴュルツラー、アリスティード・フォン:「ヤンキー・ドゥードゥル」による変奏曲(MP3ダウンロード)

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