一日一曲(670)ラフマニノフ、セルゲイ:交響的舞曲

 今年生誕150年(1873年4月1日生)のセルゲイ・ラフマニノフ特集その7(最終回)です。

 神経衰弱から立ち直って以降は順風満帆だったラフマニノフさんに、ロシア革命が暗く影を差すことになりました。
 1917年、祖国を離れ、結局アメリカに亡命することとなります。作曲活動は縮小し、食べるために始めたピアニスト活動が中心となりました。ピアニストとしては大成功をおさめ、歴史に名を遺すピアニストとなりました。
 一方、作曲活動のほうは減退してしまいました。

 「もう何年もライ麦のささやきも白樺のざわめきも聞いてない」

 友人の作曲家、ニコライ・メトネルさんになぜ作曲しないのかと問われた時に、ラフマニノフさんはそう答えられたそうです。
亡命以降は、いくつかの歌曲とピアノ小品を除くと、ピアノ協奏曲第4番、コレルリの主題による変奏曲(ピアノ独奏曲)、パガニーニの主題による狂詩曲(ジャンルとしてはピアノ協奏曲にあたります)、交響曲第3番、交響的舞曲(管弦楽曲)を作曲したにとどまっています。

 1931年にはスイスにヨーロッパの拠点をおき、祖国への帰国も見据えますが、ナチスの台頭によりその拠点も引き払うことになります。1942年にはビバリーヒルズに移り住みましたが、いくばくもなく1943年3月に亡くなられました。

 1940年に作曲された、本日ご紹介する「交響的舞曲」が、ラフマニノフさんの最後の作品となりました。作曲者自身「何が起こったのか自分でもわからないが、おそらくこれが私の最後の煌きになるだろう」と述べていらしたそうです。まず2台ピアノのための版が完成し、ラフマニノフさんの自宅で開かれた私的な演奏会で、作曲者自身とこちらも大ピアニストのウラディミール・ホロヴィッツさんとの共演により初演が行われました(二台ピアノ版には作品45aという作品番号が与えられています)。
 その後、オーケストラ版も完成し、1941年1月3日にユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団によって初演が行われました。
 曲には、ラフマニノフさんが好んで使用していたグレゴリオ聖歌「怒りの日」の旋律をはじめ、酷評された交響曲第1番、声楽曲の「徹夜祷」、交響詩「死の島」など、これまでのいろいろな自作からの引用が見られます。

 本日は初演時の指揮者とオーケストラの演奏でどうぞ(ただし、初演ではなく、1960年の録音です)。

NML(ナクソス・ミュージック・ライブラリ)より(NML会員以外の方でも無料で試聴できます)
ラフマニノフ:交響的舞曲

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です