一日一曲(1304)ニコデモヴィチ、アンジェイ:ヴァイオリンソナタ
本日は、生誕100年(1925年1月2日生)を迎えらえたポーランドの作曲家兼ピアニスト、アンジェイ・ニコデモヴィチさんの曲をご紹介します。
ニコデモヴィチさんはウクライナ中央部の街リヴィウで有名な建築家の息子として生まれました、7歳のときに私立の音楽学校に入学し、音楽を始めました。1939年から1940年にかけて、キャンドルマスの聖母教会のオルガニストとして働いています。教会にはオルガンがなかったため、代わりにハーモニウムを演奏した、とのことです。1941年にドイツ軍がリヴィウに侵攻したため、避難を余儀なくされています。音楽を続けていくことが困難になったことから工芸学校で1年間、その後2年間化学学校で学びました。1944年からはリヴィウ工科大学で化学を学び始め、作曲学部のリヴィウ音楽院で音楽研究を始めましたが、二重研究は公式には違法であったことから、音楽に集中するために、1946年に化学の勉強を中断、音楽の道に進むことを決意しました。その後、1947年から1950年にかけてリヴィウの聖マグダラのマリア教会のオルガニストとして働いています。1951年から1973年までリヴィウ音楽院で働くこととなり、最初は音楽史事務所の責任者、1956年からは作曲、音楽理論、ピアノの教授として後進の指導にあたられました。1953年のヨシフ・スターリンの死後の雪解けのおかげで、ワルシャワ秋季国際現代音楽祭が開催され、ニコデモヴィチさんは1956年の第1回に参加、ここで音楽の新しい方向性を用いた作品にインスピレーションを得、以降次々に作品を発表します。しかし、ソ連はニコデモヴィチさんの作風を良しとせず、より近代的な作品が反政治的であるとして厳しい批判を浴びせました。ただ、そのような中、1961年にはソビエト連邦にとって重要なモスクワの全連合作曲コンクールで、ニコデモヴィチさんは3位を獲得されています。しかし1973年には、宗教的信念を理由に共産党当局から解雇され、録音もすべてリヴィウのラジオから削除されてしまいます。以降1980年までピアノの個人レッスンで何とか自活の生活を送りました。1980年に彼はリヴィウを離れ、ポーランド東部の街ルブリンに定住しました。マリア・キュリー・スクウォドフスカ大学とルブリン・カトリック大学の講師、1980年から1984年にかけてはカロル・リピンスキ国立音楽学校で教師として働き、1982年から1992年にかけては高等神学校の合唱団指揮者を務められました。1989年からはポーランド作曲家連合ルブリン支部の会長を務めるとともに、ミュージック・オブ・ザ・ボーダーランズ財団の名誉会長も務められました。2003年に、ヨハネ・パウロ2世よりプロ・エクレシア・エ・ポンティフィス賞が授与されています。2017年にルブリンで92歳で亡くなられました。
本日はヴァイオリンソナタをどうぞ。1949年、作曲者24歳の時の作品です。非常に透明感のある、美しい曲です。特に第1楽章の;主題ですが、問いかけるような高音で上昇する2音が何度か繰り返し出てきますが、出てくるたびに少しずつ音が変わっています。この微妙で繊細な感覚が、本曲の透明感の基になっているのでしょう。随所でヴァイオリンの高音域が効果的に使われています。本曲はあまり知名度が高くないと思いますが、「知られざる名曲」です!もっと頻繁に演奏される機会があってしかるべき曲と感じました。
NML(ナクソス・ミュージック・ライブラリ)より(NML会員以外の方でも無料で試聴できます)
ニコデモヴィチ、アンジェイ:ヴァイオリンソナタ