一日一曲(1369)ラヴェル、モーリス:左手のためのピアノ協奏曲

 本日は、生誕150年(1875年3月7日生)を迎えらえたフランスの作曲家、モーリス・ラヴェルさん特集の3回目です。

 1910年。35歳のラヴェルさんは、保守的な「国民音楽協会」と決別し、シャルル・ケックランらと「独立音楽協会」を旗揚げしました。この協会は、現代的な音楽を促進、新しい音楽の創造を目指すことを目指して作られました。活発に活動を行う中、ヨーロッパは第一次世界大戦に突入します。ラヴェルさんは愛国心から義勇兵に応募します。当初はパイロットとして志願、体重が規定に「2キログラム」満たなかったため不合格でした。周囲は安堵しましたが、本人はかなりの落胆ぶりでした。ようやく1915年3月にトラック輸送兵として兵籍登録され、戦地に赴きました。任務は砲弾の下をかいくぐって資材を輸送するという危険なものでした。道中、腹膜炎となり手術を受ける羽目になってしまい、結局幾ばくもなく除隊となりました。この時の体験はラヴェルさんの心身に大きな影響を残しました。また、大戦中の1917年1月15日、最愛の母親が76歳でこの世を去ってしまいます。生涯最大の悲しみに直面したラヴェルさんの創作意欲は極度に衰え、1914年にある程度作曲されていた組曲『クープランの墓』を完成(1917年11月)させた以外は、3年間にわたって実質的な新曲を生み出せせませんでした。母の死から3年経とうとした1919年末に書かれた手紙には、「日ごとに絶望が深くなっていく」と、痛切な心情が綴られています。1920年1月、レジオンドヌール勲章叙勲者にノミネートされたましたが、これを拒否したために物議を醸し、結果的に4月、公教育大臣と大統領によってラヴェルさんへの叙勲は撤回されました。1928年、初めてアメリカに渡り、4か月に及ぶ演奏旅行を行ないました。ニューヨークでは満員の聴衆のスタンディングオベーションを受ける一方、黒人霊歌やジャズ、摩天楼の立ち並ぶ町並みに大きな感銘を受けた。この演奏旅行の成功により、ラヴェルさんは世界的に有名になりました。同年、オックスフォード大学の名誉博士号を授与されています。

 本日の曲は、晩年の名作、「左手のためのピアノ協奏曲」です。1930年、ラヴェルさん55歳の時の作品です。本曲は第一次世界大戦で右手を失ったピアニスト、パウル・ウィトゲンシュタインの依頼を受けて作曲されました。依頼を受けたラヴェルさんは、当時すでに構想していた『ピアノ協奏曲 ト長調』と並行して本曲を作曲することに挑戦しました。2つのピアノ協奏曲を並行して作曲したことについて、ラヴェルさん自身は「とても興味深い体験だった」と語っていらっしゃいます。作曲するに当たり、古今の作曲家による左手のためのピアノ曲の数々を勉強されていらっしゃいます。完成した作品は、1931年11月27日、ウィーンで依頼者ウィトゲンシュタインのピアノで初演されました。が、ウィトゲンシュタインは楽譜通りに弾き切れなかったばかりか、勝手に手を加えて(簡単にして)演奏、その上「ピアノがあまりにも難技巧にこだわりすぎていて音楽性がない」と非難。これにより、ラヴェルさんとウィトゲンシュタインとの仲はこれ以降険悪となった。ウィトゲンシュタインが「演奏家は奴隷ではない」といったのに対し、ラヴェルさんは「演奏家は奴隷だ」とやり返したという逸話が残っています。本曲はその後、1933年1月27日に、ジャック・フェヴリエの独奏によりパリで再演されたのが、楽譜どおり演奏された初めての演奏となりました。
 
 曲は単一楽章ですが、「緩-急-緩」の三部構成で書かれています。曲は、コントラバスとチェロの和声とコントラファゴットの旋律という超低音で始まり、次第にオーケストラが高揚、最高に盛り上がった所でピアノが割り込み、華やかなカデンツァを奏します。出だしからここまでの部分ですが、夜明け近く、だんだん周囲が明るくなり、山の稜線からまばゆいばかりの朝日が燦燦と輝きだす、そんなイメージを持ちます。第2部ではジャズが取り入れられ、快活に進行します。最後の第3部ではピアノが超絶技巧のカデンツァで聴衆を圧倒します。終結部では、ジャズのメロディが一瞬現れ、急転直下の幕切れとなります。数多のピアノ協奏曲の中でも特級の名作です!

NML(ナクソス・ミュージック・ライブラリ)より(NML会員以外の方でも無料で試聴できます)
ラヴェル、モーリス:左手のためのピアノ協奏曲

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