一日一曲(1601)シュトラウスII世、ヨハン:ウィーンの森の物語

 本日は、生誕200年(1825年10月25日生)を迎えらえたオーストリアの作曲家、ヨハン・シュトラウスII世さん特集の3回目です。

 1849年、父ヨハン1世が死去しました。父の葬儀を済ませた後、ヨハン・シュトラウスII世さんは父の遺したシュトラウス楽団を自分の楽団に吸収しました。それまで親子に分散されていた仕事が、父の死によってヨハンのもとに集中するようになりました。この時期のヨハン・シュトラウスII世さんは非常に忙しく、一晩に舞踏場やレストランを5軒以上も演奏に回ったとされ、馬車の中で作られたワルツもあるとさえ伝えられています。5か所以上の演奏場に自身の名を冠したオーケストラを置いたため、シュトラウス楽団は一時期200人を超える大所帯でした。なお、ヨハン1世が務めていた宮廷舞踏会音楽監督の役職は、宮廷に嫌われてしまっていたヨハン・シュトラウスII世さんが引き継ぐことは叶いませんでした。1851年秋、フランツ・ヨーゼフ1世の命名日を祝う式典に便乗して、カドリーユ『万歳!』を作曲し、皇帝に献呈しました。それが功を奏し、1852年の謝肉祭において、ヨハンは宮廷のダンスの指揮をやっと許されました。1853年に皇帝襲撃事件に際しては『皇帝フランツ・ヨーゼフ1世救命祝賀行進曲』を作曲し、皇帝の婚礼に際しては『ミルテの花冠』を作曲するなど、ハプスブルク家との結びつきを次第に強めていきました。こうしてヨハン・シュトラウスII世さんは少しずつ宮廷での仕事も持つようになりました(ただし宮廷舞踏会音楽監督には1863年まで就任させてもらえませんでした)。この頃のヨハン・シュトラウスII世さんは、あまりの忙しさのために、しばしば再起不能かと思われるほどの重病に倒れたています。1850年には過労によって危篤状態にまで陥りました。そこで母アンナは1853年、次男ヨーゼフに兄の代役として指揮者を務めさせることを思いつき、ヨハンもこれに同調しました。さらに、末弟エドゥアルトをも音楽家の道に引きずり込むことに成功しました。法律家協会、医師会、技術家協会、芸術家協会などの団体が公開舞踏会を催す際には、きまってヨハン・シュトラウスII世さんのもとに新曲の依頼が飛び込んできました。兄弟で仕事を分担するようになってもヨハン・シュトラウスII世さんの生活は相変わらず多忙をきわめ、「いつも夜会服を着て暮らす男」と呼ばれることもあったそうです。父と同じく、ヨハン・シュトラウスII世さんの音楽活動はオーストリア国内には留まりませんでした。1856年にはロシアの鉄道会社と契約を結び、夏のシーズンにはパヴロフスクの駅舎で演奏会を指揮するようになりました。ウィーン宮廷とは対照的に、ヨハン・シュトラウスII世さんはロシア宮廷の寵児となりました。パヴロフスクの演奏会には皇帝アレクサンドル2世一家も姿を見せ、チェロの名手であった皇帝の弟コンスタンチン・ニコラエヴィチ大公は、ヨハンのオーケストラに加わって演奏することもあったそうです。ヨハン・シュトラウスII世さんはしばしばツァールスコエ・セローやパヴロフスク宮殿に招かれてロシア皇室の歓待を受け、戴冠式やその祝賀行事にも招待されました。

 本日の曲は「ウィーンの森の物語」です。「三大ワルツ」の一曲です(残り1曲は今回の特集の最終日にご紹介いたします)。1868年、作曲者42歳の時の作品です。初演は1868年6月の初頭だったのですが、それに間に合うようわずか1週間で書き上げられました。こちらは前回・前々回のワルツとは違って、初演から大好評でした。このワルツは題名の通り、ウィーンっ子の憩いの場であった美しい緑地帯「ウィーンの森」を描写した作品です。ただ、当の作曲者は自然が大の苦手で、自然の中に出かけていくことに対して尋常ならざる恐怖を抱いていたとのことです。そうであるのに、見事な作品を仕上げてしまうあたり、さすが、としか言いようがありませんね。
 本曲は、踊るためのワルツというよりは「演奏会のためのワルツ」として書かれています。ロシアのパヴロフスク駅での仕事を受け持つようになった頃から、ヨハン・シュトラウスII世さんは「聴くためのワルツ」に関心を寄せるようになっており、その影響が色濃く反映しているともいえます。本日も名曲をご堪能ください。

NML(ナクソス・ミュージック・ライブラリ)より(NML会員以外の方でも無料で試聴できます)
シュトラウスII世、ヨハン:ウィーンの森の物語

シュトラウスII世、ヨハン:ウィーンの森の物語(MP3ダウンロード)

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