一日一曲(1602)シュトラウスII世、ヨハン:酒・女・歌

 本日は、生誕200年(1825年10月25日生)を迎えらえたオーストリアの作曲家、ヨハン・シュトラウスII世さん特集の4回目です。

 1870年はヨハン・シュトラウスII世さんの身内が次々と世を去った不幸な年でした。母アンナ、弟ヨーゼフ、さらには叔母がこの世を去りました。死に対して病的な恐怖心を抱いていたヨハン・シュトラウスII世さんは精神的にすっかり参ってしまいました。作曲意欲を失ったヨハン・シュトラウスII世さんに対して妻ヘンリエッテや周囲の人間は、オペレッタの作曲を熱烈に勧めました。かつて作曲家オッフェンバックに「君もオペレッタを書いてみたらどうだい」と勧められていた影響もあって、ヨハン・シュトラウスII世さんはオペレッタへの道を進むことを決意しました。苦労して手に入れた宮廷舞踏会音楽監督の地位を1871年1月に末弟エドゥアルトに譲り、最初のオペレッタ『インディゴと40人の盗賊』を作曲しました。台本の評価はあまり良くありませんでしたが、ヨハン・シュトラウスII世さんの音楽と舞台の華やかさ、晴れやかな踊りのおかげで本作品は成功を収めました。オペレッタに進出した1871年以降、ヨハン・シュトラウスII世さんは新しいダンス音楽をほとんど書かなくなりました。これ以降オペレッタに活動の場を移し、また末弟エドゥアルトはシュトラウス楽団の頂点に君臨することとなりましたた。当初はオッフェンバックに大きく後れをとっていましたが、やがてオッフェンバックをはるかに凌駕するオペレッタ作曲家となりました。今日ではヨハン・シュトラウスII世さんの『こうもり』と『ジプシー男爵』がオペレッタの王座を獲得し、その上演回数はオッフェンバックの『天国と地獄』とは比較にならないほど多くなっています。1872年6月17日、アメリカのボストンで、アメリカ独立100周年の祝典をかねた世界平和記念祭および国際音楽祭が開催されることとなり、この指揮者としてヨハン・シュトラウスII世さんが招かれました。旅行嫌いだったヨハン・シュトラウスII世さんは、大西洋を越える長い船旅に恐怖心を抱いており、あまり乗り気ではなかったそうですが、妻ヘンリエッテの説得によってアメリカ訪問を決意、船旅にあたって遺言書の作成まで行って出発しました。このボストン世界平和記念祭は、聴衆10万人という当時としては空前の規模の演奏会でした。『美しく青きドナウ』の指揮の際、2万人の演奏者と歌手に正しいテンポを与えるため、100人の副指揮者が補助として配置されたそうです。ボストンで十数回のコンサートと舞踏会を指揮した後、ヨハン・シュトラウスII世さんはさらにニューヨークでのコンサートに臨み、いずれも大成功で熱狂的な歓迎を受けました。なお、この成功にもかかわらず、ヨハン・シュトラウスII世さんはアメリカの「馬鹿げた音楽の聴衆」を軽蔑したといわれています。

 本日の曲はワルツ「酒・女・歌」です。こちらは「十大ワルツ」の1曲です。1869年、作曲者43歳の時の作品です。今回の特集では三大ワルツ全曲と十大ワルツの2曲をご紹介しましたが、ご紹介できなかった残りの十大ワルツを記しておきます。
  ・朝の新聞(1864年作曲)
  ・千夜一夜物語(1871年作曲)
  ・ウィーン気質(1873年作曲)
  ・南国のバラ(1880年作曲)
  ・春の声(1882年作曲)
 「酒と女と歌を愛さぬ者は、生涯馬鹿で終わる」という有名な格言を基としてジョセフ・ベルが書いた詩に、ヨハン・シュトラウス2世さんが音楽をつけて完成した作品です。1869年2月2日の「仮装音楽会」で初演され、大成功を収めました。岩倉使節団は1872年6月18日から翌日にかけてボストンのコンサートを鑑賞しているのですが、そのプログラムの中にヨハン・シュトラウス2世本人の指揮による『酒、女、歌』があった、という話も伝わっています。本日も名曲をご堪能ください。

NML(ナクソス・ミュージック・ライブラリ)より(NML会員以外の方でも無料で試聴できます)
シュトラウスII世、ヨハン:酒・女・歌

シュトラウスII世、ヨハン:酒・女・歌(CD)

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