一日一曲(1656)ボワエルデュー、フランソワ=アドリアン:ピアノ協奏曲ヘ長調

 本日は、生誕300年(1775年12月16日生)を迎えらえたフランスの作曲家、フランソワ=アドリアン・ボワエルデューさんの曲をご紹介します。

 ボワエルデューさんは1775年12月16日にフランス北部の街ルーアンで生まれました。1783年(8歳)のときに同地の大聖堂の少年聖歌隊に入り、歌唱法やソルフェージュ、オルガンをまなびました。その後パリやボローニャでさらなる研鑽を重ねました。鍵盤楽器奏者として認められたのち、1791年(16歳)に故郷に戻り、ルーアンの聖アンドレ教会のオルガニストに就任、またピアニストとしても活動を開始しました。同時に作曲家としても活動を開始し、1793年に最初のオペラ『罪ある娘』を発表・上演され、オペラ作曲家として最初の成功を収めました。なお、この1作目となったオペラの台本はルーアンの大司教の書記であった父が書いたものでした。続けて1795年に2作目となった『ロザリーとミルザ』も上演は成功を収めました。この成功により、1796年からパリで活動の拠点を移し、1797年には3つのオペラ(『スイス人の家族』、『幸福な知らせ』『賭』)を立て続けに発表・上演し、パリ・オペラ座の人気作曲家として名声を確立しました。1800年以降には『ベニオフスキー』、『バグダッドの太守』、『オーロール伯母さん』などでその地位を不動のものにしました。1798年から1803年までパリ音楽院のピアノ科の教授を務めました。1803年にロシア帝室作曲家の地位を得て、サンクトペテルブルクへ赴任、宮廷でフランス語のオペラの監督に任命され、1810年まで滞在し、10作のオペラを作曲しました、1811年4月頃にパリに戻り、再び母国で活躍されました。1817年にはパリ音楽院の作曲科教授に復職し、1829年まで教鞭を執りました。また1818年にはアカデミー会員にも選出されていらっしゃいます。1825年には彼の最高傑作として評される『白衣の婦人』が初演され、好評を博しましたが、それ以後の作品は不評に終わり、さらに結核性喉頭炎により健康を害したため、療養生活を送るようになりました。晩年は家財を失い、政府の年金を受けながら生活を送るなどに過ごし、1834年10月18日にパリ近郊のヴァレンヌ=ジャルシーで58歳でこの世を去りました。

 本日の曲は「ピアノ協奏曲ヘ長調」です。1792年に作曲し、自ら初演されました。ボワエルデューさんの唯一のピアノ協奏曲として知られています。知らずに聴いていると、「作曲者はモーツァルト?」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。モーツァルトは1756年生まれ1791年逝去ですから、ほぼ同時代ということになります。時代の影響も大きく受けているのが、本曲にあらわれているのではないでしょうか。曲は2楽章形式と少々変則的で、第2楽章は変奏曲形式となっています。ボワエルデューの工夫なのかもしれません。

NML(ナクソス・ミュージック・ライブラリ)より(NML会員以外の方でも無料で試聴できます)
ボワエルデュー、フランソワ=アドリアン:ピアノ協奏曲ヘ長調

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