一日一曲(1952)ラディーグ、エリアーヌ:Occam I

 本日は、今年(2026年)2月23日に94歳で亡くなられたフランスの作曲家、エリアーヌ・ラディーグさんの曲をご紹介します。

【エリアーヌ・ラディーグ:電子音の微細なうなりから生楽器の倍音の海へ、ほとんど動かない音の奥に無限の変化を聴かせた「静寂の航海者」】
 エリアーヌ・ラディーグ(Éliane Radigue)は、1932年1月24日、フランス・パリに生まれました。幼いころからピアノに親しみ、のちにハープや音楽理論も学びました。1950年代にはニースで暮らし、美術家アルマンと出会い、1953年に結婚しました。1954年ごろ、ラジオでピエール・シェフェールのミュジーク・コンクレートを聴いたことが大きな転機となり、翌1955年にシェフェールと出会って、フランス国営放送の実験スタジオでテープ編集や録音などの技法を学びました。
 子育てのため一時創作から離れたのち、1960年代後半にはピエール・アンリの助手として電子音楽制作に復帰します。1970~71年にはニューヨーク大学に滞在し、ブックラなどのシンセサイザーを使用。やがて大型モジュラー・シンセサイザーARP 2500と出会い、これを自ら所有してパリへ持ち帰りました。その後数十年にわたって、持続音の中で倍音や微細なうなりがゆっくり変化する、独自の電子音響世界を築いていきます。
 1974年にはチベット仏教と出会い、一時創作を休止しましたが、1978年に作曲へ復帰。その精神的経験は、のちの《Trilogie de la Mort(死の三部作)》などにも深く反映されました。そして2000年代に入ると大きな転換を迎えます。それまで長くシンセサイザーを中心に一人で制作してきたラディーグが、演奏家と直接対話しながら、生楽器の音そのものから作品を作り始めたのです。《Naldjorlak》を経て、2011年からは晩年最大のプロジェクトとなる《Occam Océan》シリーズを展開しました。
 ラディーグの音楽では、旋律やリズムよりも、音の内部に潜む倍音、うなり、共鳴、そして聴く人の知覚そのものが主役になります。ほとんど変化していないように感じる音が、耳を澄ませるほど少しずつ姿を変えていく。その独特の音楽世界を生涯追求し、2026年2月23日、生まれ故郷でもあるパリで94歳の生涯を閉じました。

【本日のご紹介曲:Occam I(2011)】
 《Occam I》は、2011年に生まれたハープ独奏曲で、ラディーグ晩年の巨大な連作《Occam Océan》の記念すべき第1作です。ウェールズのハープ奏者ロドリ・デイヴィス(Rhodri Davies)の委嘱によって作られ、彼に献呈されました。2011年6月14日、ロンドンのクライスト・チャーチ・スピタルフィールズでデイヴィス自身によって初演されています。
 そもそも《Occam Océan》という題名には、二つのイメージが重なっています。一つは、中世の哲学者ウィリアム・オッカムに由来する「オッカムの剃刀」、つまり余計なものを増やさず、最も単純な解決を選ぶという考え方。もう一つは、ラディーグが若いころに読んだデイヴィッド・ダンカンのSF小説『Occam’s Razor』(1957年)から記憶していた「神話的な海」のイメージでした。大海原の巨大なうねりから小さなさざ波まで、さまざまな振動を一つの「海」として捉えることが、このシリーズ全体の発想につながっています。
 そして《Occam I》には、一般的な意味での楽譜がありません。
 2011年1月、デイヴィスはパリのラディーグを訪ね、数日間にわたって二人で音を探していきました。ラディーグが彼に示したのは、音符の書かれた紙ではなく、葛飾北斎の《神奈川沖浪裏》でした。ラディーグ自身が後に「このイメージが楽譜です」と説明したように、その大波の形や運動感を二人の記憶の中に置き、それを道標として音楽を作っていったのです。
 制作中、デイヴィスはE-Bowを使ってハープの弦を持続的に振動させる方法も試しました。しかしラディーグは、その音を機械的すぎると感じました。そこで二人は、弓でハープの弦を擦る方法へと向かいます。通常は指ではじくハープを弓で奏することで、低い持続音の中から倍音や微細なうなりが浮かび上がり、それらを少しずつ別の音へクロスフェードさせていきました。さらに終盤では、小型ファンに取り付けた糸で弦を優しく刺激するという、デイヴィス独自の奏法も用いられます。
 曲はハープの低音域から始まり、次第に高い音域へ上昇していきます。一つの持続音の中へ別の音がいつの間にか入り込み、二つが重なることで、それまで存在しなかったような倍音や低い差音が聞こえてきます。そして終盤、持続する音の世界から小型ファンによる繊細な響きへ移り、最後には静かな撥弦とハーモニクスへと変化しながら、音はゆっくり沈黙へ消えていきます。

【聴きどころ】
1)「ハープ」の先入観が消えていく、低音の入り口
 冒頭から、私たちが普通「ハープ」と聞いて想像する華麗なアルペジオはほとんど現れません。低い弦を弓で擦った長い音が、霧のようにゆっくり姿を現します。
 ここで注目したいのは、音そのものより、その周囲に生まれる音です。一つの音の中から高い倍音が浮かんだり、別の音が重なった瞬間に微かなうなりが生じたりします。ラディーグが聴かせようとしているのは「音符」ではなく、音符の内部に隠れていた小宇宙です。

2)音が変わった「瞬間」が分からない、驚異のクロスフェード
 《Occam I》の大きな魅力が、一つの音から次の音への移り変わりです。
 普通の音楽なら「ここで新しい音になった」と分かります。しかしこの作品では、次の音がほとんど気づかないほど静かに侵入し、しばらく二つの音が共存したあと、最初の音が消えていきます。気がついたときには、もう別の場所へ来ているのです。
 デイヴィス自身、このクロスフェードを実現するため、左右の手で弓を操る技術を数か月にわたって磨いたと述べています。ほんのわずかに弓の位置がずれるだけでも倍音の構成が変わるため、ここで要求されるのは派手な技巧ではなく、ラディーグの言う「絶対的なコントロールのヴィルトゥオジティ」です。

3)北斎の「大波」が砕けず、静寂へ変わっていく終盤
 この作品を聴くとき、ぜひ北斎の《神奈川沖浪裏》を思い浮かべてみてください。
 曲は低音から少しずつ上へ進み、やがて小型ファンが弦を撫でる独特の響きへ変化します。そして最後に現れるのが、静かな撥弦とハーモニクスです。デイヴィスは制作過程を振り返り、この部分を北斎の波が「砕けない」場所として語っています。
 巨大な波が押し寄せているのに、壮大なクライマックスは訪れません。むしろ音は細く、軽くなり、そのまま静寂へ溶け込んでいきます。

●「何が鳴っているか」から、「いま自分は何を聴いているのか」へ。
 29分間じっと耳を澄ませているうちに、ハープを聴いていたはずが、いつの間にか倍音や空間の振動、さらには自分自身の耳の働きを聴いていることに気づく。《Occam I》は、そんな不思議なところまで私たちを連れていく作品です。

 今回ご紹介するロドリ・デイヴィスの録音は、2015年1月3~4日にムードンのスタジオで収録され、2017年にアルバム《Occam Ocean 1》として発売されたものです。演奏時間は29分14秒。作品をラディーグとともに生み出した本人による演奏という意味でも、《Occam I》を聴くうえで非常に重要な録音です。

NML(ナクソス・ミュージック・ライブラリ)より(NML会員以外の方でも無料で試聴できます)
ラディーグ、エリアーヌ:Occam I

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