一日一曲(1434)ソロタリョフ、ウラディスラフ:パルティータ第1番
本日は、没後50年(1975年5月13日没)を迎えらえたソビエト連邦の作曲家兼バヤニスト、ウラディスラフ・ソロタリョフさんの曲をご紹介します。NMLでは、「Solotaryov」のスペルですが、「Zolotaryov(ゾロタリョク)」という表記と読みもちょこちょこ見つけました。どちらが一般的なのでしょうね?
ソロタリョフさんは1942年9月13日にロシアの極東、ハバロフスクの農村地域の一つであるデカストリで生まれました。お父様はロシア軍の昇降だったそうです。なお、生年月日は正確には確立されていないそうで、1942年なのか43年なのか、いくつか説や資料が存在するとのことです。9月13日は現代音楽の祖シェーンベルクの誕生日でして、ソロタリョフさんはもしかしたら、尊敬する作曲家の誕生日を「お借り」していたのかもしれません。1953年に父親からバヤンを買い与えられたことが一つのきっかけとなりました。音楽学校の予備教育に通っていましたが、1960年、オホーツク海沿岸の街マガダンに音楽大学が開校し、ソロタリョフさんは最初の学生の仲間入りをしました。1963年から1966年までの3年間は軍隊勤務となり、この期間はソロタリョフさんにとって非常に厳しい期間を過ごしました。1968年にマガダン中等音楽学校を卒業、チュクチのプロビデンス湾の入植地でバヤンの教師としてに1969年1月から1年間働きました。この期間に音楽学校のディレクターとして働いていたチェロ奏者のイリーナに会い、結婚することとなりました。1970年の初めに、ソロタリョフさんは妻のイリーナと息子のウラジスラフとともにモスクワに移り、ムズフォンドで2ヶ月間働きました。1970年から1971年にかけての冬、ソロタリョフさん一家はマガダンに戻り、ソロタリョフさんは大学で理論の教師として働きました。しばらくして住宅問題のため、妻と子供は街を出てモスクワに戻ることとなりました。1971年初頭に息子のヘンリーが生まれる少し前に、ソロタリョフさんもモスクワに移りました。1971年秋、ソロタリョフさんはモスクワ音楽院の作曲家教員に受け入れらそうになったのですが、当時のトップのフレンニコフとそりが合わず、また、作曲家の卒業証書を持っていなかったこと、そしてソロタリョフさんが党と同じ見解を持っていなかったことが問題となり、作曲家同盟への加盟は認められませんでした。そのため、作曲ではお金を稼ぐことができず、それでも作曲活動をあきらめなかったソロタリョフさんには経済問題、そこから派生した家庭問題、健康問題(うつ病)など、様々な苦難が降りかかりました。綱渡りのような歳月を過ごしたのち、1975年5月13日に自殺という悲劇でソロタリョフさんは33歳という短い生涯を閉じられました。
本日の曲はバヤンの独奏曲「パルティータ第1番」です。激動の人生、繊細な精神を象徴するかのような曲です。時に暴力的とも感じるような不協和音の塊に押しつぶされそうになりながらも、優しい眼差しを思わせるような、おだやかな、静かに流れる時間が現れます。ソロタリョフさんは極東の自然をこよなく愛されたそうですが、極東の厳しくも美しい自然がにじみ出ているのかもしれません。
NML(ナクソス・ミュージック・ライブラリ)より(NML会員以外の方でも無料で試聴できます)
ソロタリョフ、ウラディスラフ:パルティータ第1番