一日一曲(1360)アンビルド、カロル:ピアノ協奏曲

 本日は、生誕100年(1925年2月16日生)を迎えらえたポーランドの作曲家、カロル・アンビルドさんの曲をご紹介します。

 アンビルドさんはポーランド中央部の街カトヴィツェで生まれました。1938年までピオトロヴィツェの小学校に通っていましたが、第二次世界大戦の勃発により、音楽を含むしっかりした教育を受ける機会を奪われました。15歳のとき、強制農場労働者としてシュヴァイトニッツに移送されました。そこから脱出した後、再び強制労働に移送されるのを避けるために、カトヴィツェの中等音楽学校に入学しました。しかし、1943年に再び教育を中断しなければなりませんでした。ドイツ軍に動員され、フランスに送られましたが、連合軍の侵攻後、そこから脱出しました。彼は西部でポーランド軍に入隊し、スコットランドに配属されました。そこで彼は芸術活動を開始し、自身のアンサンブルで兵士たちのためにコンサートを行いました。ポーランドに帰国後、アンビルドは2年間の補習課程を修了し、学位取得のための勉強を始めました。1949年から1953年にかけて、カトヴィツェ国立高等音楽学校の音楽理論、作曲、指揮学科で作曲と指揮を学び、同時にタデウシュ・ジェムスキの指導のもとコントラバスを学びました。1948年、ワジスカ・グルネの「エコー」合唱団の合唱団で定期的に活動を始め、1年後にはシレジア・フィルハーモニー管弦楽団にコントラバス奏者として入団しました。 1953年にシレジア・フィルハーモニー管弦楽団の副指揮者に就任し、カトヴィツェのポーランド・ラジオ地方局と音楽番組の共同プロデューサーとして密接に協力し、ビェルスコ=ビャワのアニメーション映画スタジオと13本のアニメーション映画のスコアの作曲家として協力しました。1954年、共産主義ポーランドで施行されていたいわゆる「労働命令」の結果、アンビルドさんはキェルツェの地方交響楽団の第二指揮者に就任しました。1957年、アンビルドは再びキェルツェに居を構え、33年間にわたり同市の交響楽団のマネージャー、芸術監督、首席指揮者を務められました。たゆまぬ努力のおかげで、当初は州交響楽団と呼ばれていたこの楽団は、1968年にフィルハーモニー管弦楽団の地位を獲得し、オスカー・コルベルク州立フィルハーモニー管弦楽団(後にシフィエントクシスカ・フィルハーモニー管弦楽団に改名)の名称を受け取りました。アンビルドさんの主導により、シフィエントクシスキエ音楽祭(1964年)が設立され、フィルハーモニー合唱団(1984年)も設立されました。1990年に引退したましたが、その後も彼の育てた管弦楽団で自身のプログラムを指揮することもありました。ポーランド国内外でのポーランド音楽の普及により、ポロニア・レスティトゥタ・ポーランド勲章の騎士十字章やポーランド作曲家連合の金バッジなど、数々の賞を受賞されていらっしゃいます。2005年4月、第13回シフィエントクシスキエ音楽祭の開会式で、シフィエントクシスカ・フィルハーモニー管弦楽団は彼に名誉監督の称号を厳粛に授与しました。同年9月には、グロリア・アルティス(Gloria Artis)という文化功労賞の銀メダルを受賞されていらっしゃいます。2008年3月1日、キェルツェで亡くなられました。

 本日の曲は1982年、作曲者57歳の時に作曲された「ピアノ協奏曲」です。伝統的な3楽章形式で書かれ、演奏時間は約25分です。個人的には第1楽章が面白く聴けました。重々しい重低音と透明感のある高音をピアノが奏でる出だしの部分は、これから始まる音楽への期待が否が応でも高まります。そこから始まる手に汗握る劇的な展開は聴くものを飽きさせません。気が付けばアンビルドさんの世界観にどっぷりと浸かっています。不安の強い音楽ですが、戦時中の体験などが影響しているのかもしれません。他の楽章も個性的です。第2楽章はお化けでも出てきそうな雰囲気の曲。第3楽章は最後の終結部に向けた盛り上がりが凄まじいです。これから広く知られてくる曲になるのではないでしょうか。

NML(ナクソス・ミュージック・ライブラリ)より(NML会員以外の方でも無料で試聴できます)
アンビルド、カロル:ピアノ協奏曲

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