一日一曲(1771) 矢代秋雄:ピアノ協奏曲
本日は、没後50年(1976年6月16日没)を迎えらえた日本の作曲家、矢代秋雄さんの曲をご紹介します。
【矢代秋雄:伝統的な西欧音楽の造形美を極め、一音の妥協も許さぬ緻密な筆致で戦後日本音楽史に峻烈な足跡を刻んだ孤高の完璧主義者】
矢代秋雄は1929年(昭和4年)10月17日、東京に生まれました。幼少期から早熟な才能を発揮し、本人曰く「子供の時は作曲が平気でいくらでもでき、ピアノ・ソナタを1週間に3曲ほど書けた」という驚くべきエピソードが残っています。10歳から諸井三郎に音楽理論を学び、1945年には東京音楽学校(現・東京藝術大学)へ入学して橋本國彦、池内友次郎、伊福部昭らに師事しました。
1951年、22歳でフランス政府給費留学生としてパリ国立音楽院へ留学します。黛敏郎と共に渡欧した彼は、メシアンやブーランジェといった巨匠のもとで研鑽を積み、和声学で最高位の評価(プルミエ・プリ)を得るなど、西欧音楽の核心を驚異的な速さで吸収しました。帰国後は、留学中に書き上げた《弦楽四重奏曲》が毎日音楽賞を受賞するなど、時代の寵児として脚光を浴びます。
彼の創作姿勢は極めて厳格で、納得のいかない音は一音たりとも書き進めない「寡作の作曲家」として知られていました。一例として《2本のフルートとピアノのためのソナタ》は、着手から完成までに1年半を要しており、その間は徹底的に「音をそぎ落とす」推敲作業の連続であったといいます。また、親友であった三善晃とは、互いに西欧の伝統である「ソナタ形式」といかに向き合うかを真摯に語り合う仲でした。
1968年からは母校の東京藝術大学で教鞭を執り、1974年には主任教授に就任して後進の育成に心血を注ぎましたが、そのあまりに真面目で責任感の強い性格ゆえに、多忙がその身を削っていきました。1976年(昭和51年)6月16日、横浜の自宅で心不全のため、46歳の若さでこの世を去りました。
【本日のご紹介曲:矢代秋雄:ピアノ協奏曲】
NHKの委嘱により作曲され、1967年に完成、1968年に初演された作品です。日本のピアノ協奏曲における記念碑的な傑作として高く評価されており、尾高賞や芸術祭奨励賞に輝いています。ソナタ形式などの伝統的な枠組みを尊重しながらも、矢代独自の鋭くも美しい音の選択が随所に光る楽曲です。
【聴きどころ】
1)第1楽章:エーテルのように漂う繊細な旋律
冒頭、独奏ピアノが刻む「ミ・ファー」という半音のリズムから、重力を抜き取ったような透明な主題が紡ぎ出されます。風のようにスリムな響きと、時折はさまれる爆発的なパッセージの対比が見事です。
2)第2楽章:一音の磁場が生む幻想的な響き
前の楽章の2音が、この楽章では「ド」というたった一つの音へと収束し、執拗に繰り返されます。その静かな磁場から湧き上がるように現れる上行形のフレーズが、深い祈りや幻想的な空間を感じさせます。
3)第3楽章:ピアノとオーケストラの華やかな対話
それまで別の空間を歩んでいたような独奏楽器と管弦楽が、最後にはじめて生き生きと交錯し、熱のこもった対話を繰り広げます。躍動するリズムに乗って、全合奏が一体となって突き進む終曲は圧巻の愉悦感に満ちています。
本日ご紹介する音源は、1967年11月29日に東京文化会館で行われた公開初演時の貴重なライヴ録音です。ソリストを務めたのは、当時弱冠22歳、ショパン・コンクール日本人初の入賞から間もない中村紘子さんでした。彼女のみずみずしく冴えわたるピアノは、この難曲に「これしかない」という決定的な解釈を与えたと評されています。指揮の森正さんとNHK交響楽団による演奏も、初演とは思えないほどの誠意と情熱に満ちたものでした。矢代秋雄という完璧主義な作曲家が世に送り出したこの名作は、誕生の瞬間から、これ以上ないほど理想的な演奏陣に恵まれていたのです。当時の会場を包んだ熱気と、新しい音楽が生まれる瞬間の生々しい鼓動を、ぜひこの録音から感じ取ってみてください。
NML(ナクソス・ミュージック・ライブラリ)より(NML会員以外の方でも無料で試聴できます)
矢代秋雄:ピアノ協奏曲
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