一日一曲(1814)フェスカ、フリードリヒ・エルンスト:弦楽四重奏曲第2番嬰ヘ短調
本日は、没後200年(1826年5月24日没)を迎えらえたドイツの作曲家、フリードリヒ・エルンスト・フェスカさんの曲をご紹介します。
【フリードリヒ・エルンスト・フェスカ:ハイドンやモーツァルトの伝統を継承し、天賦の才で独自の「しなやかさ」を音楽に吹き込んだ早逝の巨星】
フリードリヒ・エルンスト・フェスカ(Friedrich Ernst Fesca)は、1789年2月15日にドイツのマクデブルクで、音楽をこよなく愛する家庭に誕生しました。音楽教育の基礎は両親から学び、その後、地元の音楽家からバイオリンと理論の最初の手ほどきを受けました。
早くから神童としての片鱗を見せ、11歳でバイオリニストとして公開演奏会に初出演し、15歳で最初の弦楽四重奏曲(現在は紛失)を作曲しています。 1805年にはライプツィヒへ移り、聖トーマス教会の楽長アウグスト・エバーハルト・ミュラーに師事しました。ここで彼はゲヴァントハウス管弦楽団の団員となり、自作のバイオリン協奏曲を披露するなど、奏者・作曲家の両面で頭角を現しました。
1806年にはオルデンブルクで室内楽奏者として雇われ、1808年初頭にはカッセルにあるナポレオンの弟ジェローム・ボナパルトの宮廷楽団に移籍しました。 カッセル時代、彼は「カッセル最高のバイオリニスト」と評されるほどの成功を収めますが、1810年から1811年にかけて、後に命を奪うこととなる肺疾患の初期症状が現れ始めました。
1813年、王国の崩壊に伴いウィーンを訪れ、自作を出版業者や聴衆に広く紹介しました。1814年春からはカールスルーエのバーデン大公の宮廷楽団にソロ・バイオリニストとして招かれ、後にコンサートマスターに就任します。1815年から彼の作品は次々と出版され、当時の弦楽四重奏界において、ベートーヴェンとシューベルトの狭間の時期を埋める「新星」として絶大な人気を博しました。
1821年春に病状が急激に悪化し、一時は回復したものの、宮廷楽団の職務を遂行できないほど衰弱しました。 その後、数年にわたる各地での療養も虚しく、1826年5月24日にカールスルーエにて37歳の若さでこの世を去りました。
【本日のご紹介曲:弦楽四重奏曲第2番嬰ヘ短調 Op.1-2】
1815年頃に出版された作品で、フェスカがカッセル時代(1808年〜1813年)に作曲したと考えられています。フェスカの音楽の特徴である「歌うような」質感が随所に現れており、カール・マリア・フォン・ウェーバーが絶賛した「繊細でとろけるような感情の輝き」を存分に味わうことができる名品です。
【聴きどころ】
1)第1楽章:Allegro(アレグロ)
冒頭、第1バイオリンが奏でる力強い跳躍モチーフと、それに続く溜息のような半音階のフレーズが、嬰ヘ短調特有の劇的な緊張感を生み出しています。 展開部でこの主題がフーガ(追復曲)として扱われ、緻密な対位法へと発展していく様子が最大の見どころです。
2)第2楽章:Andante con moto(アンダンテ・コン・モート)
歩くような速さで奏でられるこの楽章は、ハイドン風の簡潔な美しさと、フェスカ独自の甘美な叙情性が同居しています。 特に内声部(第2バイオリンやヴィオラ)が刻む繊細なリズムに乗って、第1バイオリンが優雅に歌い上げる瞬間が非常に魅力的です。
3)第3楽章:Scherzando(スケルツァンド)
「おどけて」と指示されたこの楽章では、強拍をわざと外すような「シンコペーション」や「裏打ち」のアクセントが多用され、聴き手を翻弄するような遊び心に溢れています。 短いフレーズが各楽器間を飛び交う、軽快なアンサンブルが楽しめます。
4)第4楽章:Allegro poco moderato(アレグロ・ポコ・モデラート)
このフィナーレは変奏曲形式をとっており、シンプルながらも印象的な主題が、装飾やリズムの変化によって次々と姿を変えていきます。 フィニッシュに向けてバイオリンが技巧的なパッセージを披露し、華やかさと哀愁が入り混じった劇的な幕切れとなります。
NML(ナクソス・ミュージック・ライブラリ)より(NML会員以外の方でも無料で試聴できます)
フェスカ、フリードリヒ・エルンスト:弦楽四重奏曲第2番嬰ヘ短調
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